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Atelier Kaii - blog -

   〜 Kaiiの旅日記 〜

『芸術』という出口の見えない世界に迷い込んだ
ひとりの画家の素朴な日常をご紹介♪

※Atelier Kaii は、『東北地方太平洋沖地震』
≪2011年3月11日(金)14時46分発生・M9.0≫で
被災された方々を、総力を挙げて応援いたします
<< カイガノススメ ≪其ノ一≫ 〜絵は、観るもの。描くもの〜 | main | 大芝冬景 >>
カイガノススメ ≪其ノ二≫ 〜『見る』と『見える』…その違いは?〜
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     間が空いて失礼をいたしました。記事を書き溜めずに連載を開始すると、時間に追われ、とんでもない目に遭うものですよね壁掛時計 人生そのものが『ゆき当りばったり』なので、慣れているつもりですが…もしも再び同じ道を歩めるのなら、私の来世は追い風に吹かれるのかなぁ。。。ポロリ

     さて、せっかくなので、『カイガノススメ』を続けましょう。『観るもの描くもの』に後発する第二弾は、『見ると見えるの違い』です。

                            カイガノススメ

     私は常日頃から、絵画制作を『スポンジの吸排作業』と喩えてきました。乾燥したスポンジがたっぷりと水を吸い、ぎゅっと搾れば、そこに含まれた水分がぼたぼたと滴り落ちる。あれと同様に、絵を描こうとする者が、周囲の物体から放たれる印象に酔いしれている時をスポンジの吸収…カンヴァスを前にし、絵筆でその印象を再構築している刻をスポンジの排出だと考えているのですピピピ

     普通の人は、絵を描こうとする時にモチーフを目前に置くことでしょう。それを見ながら、傍らに立て掛けた白い画面にモチーフを描き込む。たった今、自分の瞳から入ってきた信号を頼りに色を置くのです。

     それが絵描きレベルになると、ちょっと違ってきます。もちろんこれは私の自論であり、総ての画家さんがそうだとは限らないでしょうが、絵描きの場合、モチーフから受けた印象を、日を改めてからでも再現できるように思うのです。

     『想像』と言い切ってしまうと、画家があまりにも利己的な印象を勝手に創作しているかのように捉われますので、あえて用いません。想像ではなく、印象。その放出。「いつか見た景色」や「あの時出逢った人」から授かった印象を、心の中に創った金庫から、用事があれば次々と取り出してゆく…かつての印象を具現化する。口で人に伝えるのではなく、自分がいなくても人々が理解できるよう具体化する。それが絵を描く意味ではないかと私は思っています。

     無論、記憶されるべき諸々は『映像』とは限りません。「信号は映像からしか入ってこないよ」なんて言ってたら、絵描き失格と言わざるを得ませんね。写真を見て描くことを常とする人々は、ひょっとするとそういうコメントを発するのかもしれませんが…何れ私は、彼らを絵描きと呼ぶことは無いでしょう。

    カイガノススメ

     『何を描くか、何が描かれるべきなのか』、その辺りは改めて記事にするとして、少し話を戻しましょうか。

     スポンジの吸収作業には、人それぞれ差異が生じます。また、同じ人でも、記憶に残るか否かは場合によりけりです。それを私は、見ると見えるの違いではないかと位置づけています。

     自転車で街を走っている時の例を挙げましょう。視界には、建物、街路樹、通行車両、公園、すれ違う人々など様々な存在が訪れます。5分も走れば何百というアイテムと遭遇することになりますが、ゴールに着いた時、果たして人はどれ程の記憶があるでしょうか?

     もし、景色が『見えている』だけだったならば、その人の記憶の中には、おそらく5分間の映像は薄っすらと残っているだけだと思います。
     ところが、公園でソフトクリームを頬張ろうとした瞬間に、背後からいきなり吠えた犬にびっくりしてひと口も食べずに地面に落としてしまった子供でもいれば、その様子は、おそらく翌々日になっても心に残っているはずです。

                    カイガノススメ

    見る=記憶に残す行為

    見える=単純に、自分の行動をサポートしてくれる働き


     意外と人間は、無意識のうちに『見える』だけで生活している場合も多いようです。日々の仕事が忙しくて奥さんが髪を切ったのに気づいてあげれなかったり、携帯電話で通話をしていたがために、バイクが目前まで迫っているのを判らなかったり。

     車の運転で携帯電話が規制されてしまった理由は『運転操作が不十分になり危険』のようですが、私はこの『見る、見える』が争点になるべきポイントだと思っています。
     車の運転は、当然ながら『見る』で行う必要があり、そんな時に電話がかかって、先方からややこしい話でもされたら…ドライバーの意識は運転業務からぶっ飛んでしまう。即ち、今まで見ていたはずの赤信号も、街のちっぽけなネオンサインに成り下がってしまう。通行人が単なる影に誤認されてしまう瞬間。私はそれが一番危険だと思うのです。

     また、別の観点から言うと、人間が瞳を開いた状態で一度に見える範囲を『視界(視野)』とするならば、その全体を一見で記憶するのは不可能だと思います。視界の外周から、どんどん中央へ向けて狭く絞り込んでゆき、だいぶ狭まった、焦点の合うわずかな範囲だけが記憶に残る部分ではないでしょうか?

     つまり、知らない部屋に放り込まれて、その部屋にあるアイテムを総て記憶に残そうとするのなら、その人は面倒でも、ひとつひとつのアイテムを、焦点を移しながら見つめ直す必要があるということです。

     たとえバームクーヘンのように瞳を大きく開いても、瞳を少しも動かさずに新聞を読むのは至難の業だということでしょうか。。。いや、新聞を動かせば別ですが。

             カイガノススメ

     『絵を描く』とは、忙しいものですジョギング 毎日、毎刻がスポンジ吸収のチャンスであると私は考えています。あらゆる素材のストックを、自分が日々生きることで増やし続ける。何にでも興味を示し、しつこいくらいに凝視する見る たまに変質者だと勘違いされる場合もありますが、見えるのではなく、見るに徹する。注視し、残らず心に収めること。それが絵描きとしての生き方ではないかと思うのです。

     もちろん、瞳だけが道具ではありません。自転車の例で言えば、耳からは雑踏のざわめき、風の音、犬の鳴き声、ハトの羽の音が聞こえます聞き耳を立てる 手からは冬の凍てついた風を感じる。それらも立派に、画題と成り得る印象でしょうから。

     仮に、「ゆうべは何を食べましたか?」と訊かれて答えに困る事例は、もしかすると流されるように生きている証拠かもしれませんね。感動を心に封じ込めたいのならば、もう少し生き方を選ぶ必要がある。

     そう…食べるのではなく、味わうのです。

                              カイガノススメ
    | カイガノススメ | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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